谷藤市議は1953年、佐原市の農家で4人兄弟の末っ子として生まれました。祖父、祖母も一緒の8人家族。父が鹿島工業地帯へ働きに行き、兼業農家になっても、暮らしぶりはそうラクにはならなかったようです。 当時、栄養失調だった谷藤市議も、小学校にあがるころには、男勝りの活発な女の子に。木登りでも、相撲でも、男の子を負かしてしまうほどだったそうです。
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中学校ではバレー部に所属。その顧問をしていた30を出たばかりの数学先生に大きな影響を受けた谷藤市議。「人生の目的は、お金持ちになるとか、名誉を得る事なんかではない。人間として誇りをもてる人生観を持たなくてはいけない。」 先生がよく言っていた言葉です。
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高校、大学では、どう生きるべきか、迷い苦しんだ谷藤市議。キリスト教の門をたたき、伝道師として生きようと決意した事もありました。しかし、社会科学を学ぶ中で「社会を変えること抜きに、人間解放の道はない」と感じた谷藤市議は、卒業後、近所の日本共産党の党員と出会い、青年運動を通じて学習などを経て、26歳で日本共産党に入党しました。
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谷藤市議が入党するきっかけを与えてくれた近所の日本共産党員は、林紀代子さんという保育士でした。谷藤市議は林さんの勧めで彼女が園長をつとめる共同保育所「小鳩の家」で保育士として働き始めました。そこで、子どもを持って働くお母さんたちの素晴らしさを目の当たりにし、それを支える保育運動の大切さを実感します。 「ずうっと頭でっかちの人間だったでしょう。だからリヤカーを引いてわかめを売ったり、バザーの品物を集めて回ったり、親はあきれていたけど、生きると言うことはこういうことだったのかと。すごく新鮮だったの。」 そのときの感動を、谷藤市議はこう語っています。
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28歳で結婚し、日本共産党の地区委員会働くようになって7年目、1989年11月の市議補選に、谷藤市議は立候補します。 「あなたの勇気と正義感に脱帽。」 激励の寄せ書きにそう書いてくれたのは、谷藤市議がこういう党員になりたいと思う林さんでした。 続いて1991年の市議選では行徳地域から立候補してほしいとの要望。3人の子どもたちがまだ8歳、6歳、3歳。谷藤市議は37歳でした。 自分は人付き合いが不得意だし、市議には向いていない、と思う谷藤市議に、ある人が言いました。 「あなた自身が気づいていない優れたものを、あなたは持っている。市議に挑戦してほしい」 谷藤市議は、その言葉に励まされ、頑張ろうと決意しました。 谷藤市議が政策として訴えたのは、産休明け保育の拡充や保育料の引き下げなど、子育て支援についてでした。 わが子を預けている保育園の前を宣伝カーが通るとき、窓から身を乗り出して、子どもたちが声援。「お母さん、がんばってねー!」
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谷藤市議が初当選を飾ったのは、市議会に女性議員がまだ2人しかいなかった時代の事。 何より心を砕いたのは、保育と教育の問題でした。働きながら子どもを育てている女性の大変さは、夕方一度はは子どもの面倒をみに帰宅したり、議会の準備をするのにも子どもたちが寝静まった夜中しか時間をとれなかったり、谷藤市議自身が、身を持って知っていたからです。 そうして4期16年、谷藤市議は少しでも市民の役にたつ議員でありたいと願い、必死に頑張ってきました。
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現在、日本共産党は5名。その要の役割を果たしているのが、幹事長の谷藤市議です。 住民要望や緻密な調査にもとづく議会での発言は、冒頭に紹介したように、他会派議員をも唸らせるほど。国でも市でも福祉・医療切捨て切捨て路線が強まる中で、「住民のいのちや暮らしを守れ」と迫る谷藤市議の言葉に力がこもります。こうした奮闘が、介護保険料減免の実現、国民健康保険の減免制度拡充の決議、乳幼児医療費助成の充実などの実績に結びついています。 また、三番瀬保全も、「埋め立てて再生」が議会内の主流だったころから、幾度も幾度も「貴重な浅瀬は保全せよ」と主張。一昨年、「埋め立て中止」が決まりました。 市川市になくてはならない女性市議に成長した谷藤市議を、多くの市民が応援しています。
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