明治乳業が閉鎖されたのは2000年。約1万坪の跡地利用は、そこに38年間働いてきた「俺の仕事」とにへい市議はキッパリ。この地域(大洲)は千葉県で一番人口が密集したところです。防災をかねた住民の憩える公園と同時に介護施設が欲しいという声が上がっていました。
にへい市議は、この要求を市民診療所の友の会や地域のみなさんと手を携えて取り組み、議会でも提案し続けて質問を重ねました。
 念願かなって、見晴らしのよい3階にデイサービスセンター(日帰り老人ホーム)が開設される事になりました。
 にへい市議は「工場閉鎖は忍びないが、これで地域の皆さんに少し恩返しができたかな」と目を細めます。
「同じ目線で町を、暮らしを見よう。そうすれば子どもの心も、お年寄りの苦労も、健常者では気づかなかったことも見えてくる。」これが二瓶市議の信条です。
二瓶市議はこれまでに、市川駅から総合福祉センターまでの道を目の不自由な方々とともに歩き、段差や階段、傾斜などのバリアを調査。このデータをもとに市議会で改善を要求しました。こうした地道な運動が実って、歩道整備や段差解消が実現しました。
 ある台風の日でした。二瓶市議がカッパ姿で飛び出した街は様相を一変させて水浸しでした。
 市議会で、水害の緊急対策とあわせ、抜本的対策を追及。こうした努力で南地域全体に強制排水ポンプの設置が実現しました。

いつでもどこでも全力投球の二瓶市議の活躍は2期8年間に多くの住民要求を実現に導きました。
 二瓶市議は、太平洋戦争の真っ最中、1934年、只見川ライン下りで知らされる福島県三島町で、7人兄弟の末っ子として生まれました。
農業を営む両親や兄、姉に見守られ、山や川など自然の中で遊びまわって育ちます。また、農業の手伝いをいくつか受け持つなど、両親を助けてもきました。
 二瓶市議は、高校時代に専攻した食品化学が生かせる仕事をしようと、1962年、高校を卒業すると同時に、市川・大洲にあった明治乳業市川工場に入社しました。
 就職を喜んでくれたお母さんが、何日もかかって作ってくれた布団と少しの衣類を持って故郷をあとにしました。「電車が市川橋にさしかかった時、明乳の建物が見えた」というほど、当時の市川南地域の家並みはまばらで、水田も畑もあったといいます。今は昔、40年以上も前のことでした。

会社の攻撃はねのけ、働きやすい職場求め運動

 夢と希望を抱いてはじめた会社でしたが、朝は6時に出勤し、1ヶ月100時間もの残業。夏の最盛期など、若い労働者が疲労困憊の状態でした。寮は7畳半に4人がひしめき合っていました。二瓶青年は、歯を食いしばって働きました。
 あまりの労働条件や厚生施設の悪さに、一緒に働く仲間たちは改善運動を起こします。二瓶市議もその中の1人。若くして組合(支部)の教宣部活動をはじめました。
 組合活動を嫌悪する会社は、二瓶市議たちに賃金や仕事で差別しました。
しかし、二瓶青年は、会社の攻撃にも屈せず、毅然として働く人たちの立場に立って、活動を続けるのでした。

地域でも福祉・教育の運動の先頭に

 二瓶市議は地域でも活躍します。「父親がもっと学校に足を運ぶべき」と、わが子が通う8中で「おやじの会」会長に選ばれて活動。教育問題にも深く関わっていきました。
 また、地域医療で、先駆的役割をはたす市川市民診療所に働く人たちと、お年寄りや身体の不自由な方々のために、市役所交渉などの先頭にたってきました。
 何事も積極的に挑戦する旺盛な経験が、汗して働く人たちの苦しみや悩みがわかる人間にと成長していくのでした。

7年前、市会議員に

二瓶市議のこうした活動が注目されて7年前、元市議の和木辰夫さんからバトンタッチ、市会議員に初当選しました。
 一介の労働者が議員になることは大変なことでした。「土を相手の農民が突然、海に出て漁師になったようなもの」と、二瓶市議は7年前を回顧します。

 議会では専門用語のオンパレード。その勉強からの出発でした。持ち前の勤勉さと努力で見事にクリア。今までは多くの住民要求を実現していく、押しも押されもしない市民派議員です。
 二瓶忠良市議は、「高齢者や障害者にやさしい町を」・・・・これこそが自分のライフワークと、連日市内を駆け回っています。
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